​Vol1. 
ブルーカーボン・イニシアティブのリード科学者、エミリー・ピジョン博士に聞く、日本へのメッセージ-

海洋生態系の下の堆積物には、熱帯雨林の土壌の50倍もの炭素固定力がある---。2009年、ひとつの驚くべき研究成果(*)が世界に発表されました。研究をリードしたのは、コンサベーション・インターナショナルの海洋沿岸生態系の専門家、エミリー・ビジョン博士です。海洋沿岸の生態系の保全・回復を通じて気候変動の緩和に貢献することを目指すブルーカーボン・イニシアティブのシニアディレクターとして科学的研究をリードするピジョン博士に、ブルーカーボン・イニシアティブの可能性と日本への期待、そして海への想いを伺いました。

(*)IUCN(国際自然保護連合)「The Management of Natural Coastal Carbon Sinks」(2009年11月17日発表)に掲載

© Emily Pidgeon

エミリー・ピジョン博士 (Dr. Emily ​Pidgeon)

コンサベーション・インターナショナルの戦略的海洋イニシアティブのシニア・ディレクター。海洋と生態系科学及び工学の専門家。沿岸生態系の保全と回復を促進するための国際的なパートナーシップ「ブルーカーボン・イニシアティブ」を科学者としてリード。沿岸部及び海洋の気候変動の適応及び緩和への自然を活用した解決策の開発に注力している。スタンフォード大学環境工学博士号、ウェスタン・オーストラリア大学で土木及び環境工学学士号を修得。米国スクリップス海洋研究所(Scripps Institution of Oceanography)勤務の後、現職。 

気候変動の緩和へ、大きなインパクト -注目高まるブルーカーボン

マングローブ、海草、海岸草原など、海洋沿岸の生態系には、炭素を蓄積して長期間保存する機能があり、気候変動の適応・緩和策としても注目を集めています。しかし、その価値はまだ十分に理解されておらず、開発などによる沿岸生態系の損失は今も世界各地で続いています。こういった状況を受け、2009年10月、国連環境計画(UNEP)は「ブルーカーボン・レポート」を発表し、海洋生態系保全の重要性を世界に訴えました。しかし、翌2010年にカンクン(メキシコ)で開催された気候変動枠組条約のCOP16では、まだブルーカーボンを知る人は少なかったとピジョン博士は振り返ります。こういった中、海洋沿岸の保全と回復を具体的に進めていくために2011年に立ち上がったのが、ブルーカーボン・イニシアティブです。イニシアティブはIUCN(国際自然保護連合)、UNESCO(国連教育科学文化機関)とコンサベーション・インターナショナルのパートナーシップにより運営され、地球規模で沿岸海洋生態系の保全・回復により気候変動の緩和を進める総合的なプログラムとして、専門家や民間セクター、政府機関が参画しています。こういった動きを受け、2015年11-12月にパリで開催されたCOP21では、ブルーカーボンに関するサイドイベントが開催され、オーストラリア、メキシコ、アメリカ、オーストリアなど複数の国が参加するなど、ここ数年で、各国の注目が高まっているそうです。ビジョン博士は「カーボン・アカウンティング(炭素会計)が世界的に浸透してきていることもあり、保全に積極的に取り組む姿勢が各国の間に広がっているのでしょう」と分析します。

© CI/photo by Sterling Zumbrunn

世界に広がるブルーカーボン・プロジェクト

既に複数の国で、ブルーカーボン・イニシアティブの主導するプロジェクトが進行しています。例えば、コスタリカのニコヤ湾では、マングローブの生態系保全が行われています。マングローブは、魚にとって重要な生息地であり、6千人もの漁師の所得を支えているばかりでなく、海岸の浸食を食い止め、堆積物の混入を抑えるなど、コミュニティにとって重要な役割を果たしてきました。しかし、沿岸林は劣化し損失されつつあり、炭素貯蔵機能が失われつつあるばかりでなく、地元の経済にも悪影響が及んでいます。そこで、ブルーカーボン・イニシアティブでは、地元の自治体や学校などコミュニティを形成する主体とともにプロジェクトを進行し、海洋沿岸の生態系を守るとともに、その大切さを伝えています。

「プロジェクトの多くが、途上国で、比較的小さな規模で行われています。途上国のコミュニティでは自然資源への依存度が高いためニーズも高く、小規模の方がプロジェクトとしてスタートしやすいからです。政策にブルーカーボンの視点を主流化していく上では、実績を示していくことが大切です。優良な事例を積み重ねることが、やがて大きな動きにもつながるでしょう」。

ピジョン博士が率いるブルーカーボン・イニシアティブの科学者グループは、毎年一度会合を開催し、情報共有や戦略会議を開催しています。また、政策面の主流化に向けては、オーストラリア政府らが中心となって現在草案が作成されていて、今後、世界に向けて発表される予定だそうです。

グリーン・グレーインフラの統合プロジェクトもスタート

ピジョン博士がもう一つ専門としているのは、気候変動の適応という観点から進められている、生態系をいかしたインフラをつくるプロジェクトです。生態系をいかしたグリーンインフラと、コンクリートなどを使った人工のグレーインフラの両方をうまくいかした手法は、地域の自然資源が活用され、景観が維持されるばかりでなく、費用も安価に抑えられるという点からも注目されています。2016年2月には、フィリピンで新しいプロジェクトがスタートしました。

こういったグリーンインフラの活用は、途上国のみならず先進国でも注目を集めています。現在ピジョン博士が暮らしているカリフォルニア州(アメリカ)では、洪水制御・治水の目的からグリーンインフラの導入が盛んで、サンフランシスコ・ベイエリアの湿地帯でもこういった手法が積極的に取り入れられているそうです。「このようなプロジェクトを進めるには、自治体の理解も重要です。カリフォルニア州はこのような考え方を積極的に取り入れていますが、自治体の間にこういった取り組みを広めるためにも、優良事例を集めて、それを多くの人たちに知ってもらうことが必要でしょう。民間企業の技術が活用される領域もたくさんあるはずですから、これをビジネスチャンスとして捉える企業も今後でてくると思います。日本政府もグリーンインフラを重要な政策と位置付けていると聞きました。もし日本にこういった取り組みに関心がある人がいるならば、是非、現地の専門家におつなぎしたいです」。

「カタリスト」として貢献する、コンサベーション・インターナショナルでの仕事の醍醐味

ピジョン博士は、コンサベーション・インターナショナルを「政策立案者や科学者といった多様な主体を結びつけるカタリスト(触媒)」と表現します。「科学者には科学者の、政策立案者には政策立案者の、それぞれの関心事項があります。政策立案者は、カーボンがどれくらい減らせるかという数値に関心があるかもしれませんが、科学者が専門とする理論には関心がないかもしれません。異なる背景や知識を持つ人たちを集め、互いの立場や見解を理解しあい、自然の価値を認識して、必要な行動を起こすためには、カタリストとしての役割を持った人が必要です。コンサベーション・インターナショナルは、その役割を担っているのです」。ピジョン博士は、今後、企業や地域住民といったより多様なステークホルダーの参画が進められると考えています。カタリストとしての挑戦の場は、ますます広がっていきそうです。

Posidonia oceanica meadow in Formentera, Balearic Islands, Spain
© Miguel Angel Mateo

日本は、ブルーカーボンのリーダーになれるはず

ピジョン博士は20年ほど前、スタンフォード大学で博士課程を修得中に、指導教授の実験プロジェクトに参加し、日本を訪れたことがあるそうです。琵琶湖の水流を調べることで、汚染水と生活用水が混ざりあうメカニズムを観測したそうですが、西欧人が日本に調査で入るのが珍しかった時代で、日本の地方での異文化体験が印象に残っているそうです。

世界各地の現場を訪れ、研究やプロジェクトの運営を楽しんでいるというピジョン博士。オーストラリア、パースの海沿いの街に生まれ育ったことから、海辺にいると、こころに安らぎを感じるそうです。「魚を得たり、泳いだり。海を守ることは、人の福利を守ることでもあります。自然とつながりを感じることは、人の暮らしの豊かさにも関係するのです」。

今度来日する機会があったら、是非、日本の海洋沿岸部を見てまわりたいとピジョン博士は語ります。「日本は海に囲まれた国です。先進国であり、自然災害も多い、経験豊富な国。土地利用計画や船舶事業など、海洋沿岸に影響を持つ大きな企業や、すぐれた技術を持った大小さまざまな企業があります。何より日本は島国なのですから、自国で多くのプロジェクトを手がけ、それを世界に活かし、リーダーシップをとるポテンシャルを持っていますし、とてもイノベーティブなことができると期待しています」。

<参考リンク>

取材・執筆 今井 麻希子(Yukikazet)

◆スタッフインタビューは、ライターの今井麻希子さんに取材執筆を頂いています。シリーズの今後にご期待下さい!